岡山コミュニケーション研修講演企画・元中学校教師いなっち先生こと稲田尚久です。
【子どもの努力を認められないのは、子どもを信じていないから】
前回のブログ思春期でも親子が良い関係?子供の努力に注目する大切さで、「思春期だからこそ、『努力』へ注目してほしいなあと思います。」と、最後のほうへ書きました。
こういうことを書くと、こんな気持ちが沸き起こってきませんか?
「うちの子どもは、努力すらしてくれない!」とか「努力しようという気持ちさえない!」ということ。
そういう気持ちが沸き起こるあなたは、おそらく『努力』ということについて、とってもすごいことを期待しているかもしれません。
または、親から見た『当たり前』を強く求めているのではないでしょうか?
親のものさしと子どものものさしは違う
さて、前回のブログを見ていただければわかるように、迎えの時間を守らない娘に対して、僕は娘なりに時間を守ろうと努力していることを認めています。
これって、娘がとってもすごいことをしているわけでもないです。
親から見て、時間を守るということは高校生にとってはごくごく当たり前なこと。
この『当たり前』ということを、ものさしに例えて考えてみましょう。
そもそも、ものさしは「0cm」から始まっていますから、親の『当たり前』という位置は「0cm」でしょうね。
だから親は『できて当たり前の0cm』よりも少しでもいいから「長さが増えていってほしい」と求めるんでしょうね。
しかしこれって、あくまでも親の『ものさし』で見て考えていること。
人はその人だけの『自分のものさし』を持っていて、そのスケール幅はその人だけの基準。100人いれば、100通りのスケールがあるのです。
親子といえど、『親のものさし』と『子どものものさし』のスケール幅は違うんです。
じゃあ、子どもの努力を感じられないとき、どうすればよいのでしょうか?
子どもの努力を認めるのは親のものさしで見ないこと
それは簡単。子どものことを考えるときには『親のものさし』は出さないこと。
『子どものものさし』が、どんなスケール幅でどんな基準があるのかを探っていくのです。
前回のブログの我が娘で例えてみましょう。
『親のものさし』の「0cm」は、『迎えの時間までに来ること』。
『子どものものさし』の「0cm」は、『正確な時間が分からないので、だいたいの時間を伝えておけばいい』。
もし『親のものさし』へ絶対合わせてもらわないと困るのであれば、時間が来たら待たずに帰るとか、「いつも遅れるから」と遅めの時間に行けばいいと思います。
でも、迎え以外のことでは時間を守って生活できていたので、遅れてきても、娘が「はあはあ」言いながら走ってきたことを『時間を守ろうとした努力』として、すんなり認められるというわけです。
娘のことは、必要なことはちゃんと守れる人だと信じていましたからね。
実際に娘は、一人暮らしで専門学校へ通っていたときに、寝坊して遅刻したとか一度もないそうです。
結局、子どもの小さな努力を認められないというのは、子どもを信じることができていないのかもしれませんよ。
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